『Dの食卓』『エネミー・ゼロ』などで知られる夭折の天才ゲームクリエイター、飯野賢治氏(1970年5月5日 - 2013年2月20日)がまた話題に上ることが多くなった。
没後10年の節目で様々な特集記事が公開されてきたし、グラフィックなしのゲームとして話題を集めた『リアルサウンド 風のリグレット』について、当時の出演者の連絡求むという公式の声明が最近ニュースになった。これはオーディオブックとして復刻させるために必要なことだったらしい。
亡くなってずいぶん経ってからも、ファンや業界人の間で彼の評判は衰えることがない。このスタークリエイターの名は今後10年20年と色褪せないのだろう。
そんな飯野氏には、幻のデビュー作と目されるひとつのゲームがある。
『十和田湖殺人事件』。
彼の自伝や対談で目にすることのあるタイトルだ。
1970年生まれの飯野氏は小学生時代からコンピュータにどっぷりとハマっていた。初めて親から買い与えられたのはPC-6001で、ほどなくPC-8801も手に入れる。
市販のゲームはつまらないという理由で自らプログラムするようになり、ゲーム制作に夢中になっていく。『十和田湖殺人事件』もそうして作られたゲームのひとつで、ジャンルはアドベンチャーなのだ。
後に『ドラゴンクエスト』シリーズを発表するチュンソフトの中村光一さんや堀井雄二さんなんかがエニックスのプログラムコンテストで入賞してプロ・デビューを飾っているんだよね。
それを知って僕は衝撃を受けて、「自分もプログラムをつくってコンテストに出したらなんか賞がもらえるかもしれない」と思った。
(中略)
一生懸命プログラムして、完成して、プログラムコンテストに応募した。
それがものの見事に……入賞!
賞金を受け取ることができたってわけ。
それが中学一年生のときだったのかな。小学六年生から足かけでね。
賞は優秀賞だった。最優秀賞は候補なし。
まあ、それで「大人の世界はインチキだよな」と思ったんだよな。
入賞したそのゲームのタイトルは、たしか『十和田湖殺人事件』。――『ゲーム Super 27 years Life』P41-43
エニックスのプログラムコンテストとは、言わずと知れた「第1回ゲーム・ホビープログラムコンテスト」のこと。
入選作が発表されたのは1983年1月で、翌2月に発売されている。飯野氏が衝撃を受けたというのはこの頃、中学入学直前ということになる。コンテストのニュースにすぐ発奮して制作に取りかかり、中学入学後に応募したということだろう。
やがて時代の寵児となった飯野氏は、堀井氏と幾度か対談をしているのだが――
飯野:僕のデビューって、小学六年なのよ。やっぱりプログラムコンテストで入賞して。僕の記憶だと、それがちょうど八二年か八三年かに受賞しているんですよ。『ポートピア』を知らずに、僕も『十和田湖殺人事件』というアドベンチャーゲームをつくってるんですね。で、その後、『ポートピア』というのを実際に見た時に、すごい同じこと考える人がいるなと思った。
(中略)
堀井:そのコンテストで受賞した作品、つくりはじめたのって、幾つ?
飯野:小学校五年生。
堀井:すごいね。よくつくったね、そんな年で。
飯野:小五から足かけで、受賞が小六の時ですね。――『スーパーヒットゲーム学』P94-95
困ったことに、内容が微妙に食い違っている。また別の書籍では――
あるときテレビ見たら、ゲームコンテストとかやってて、これでお金稼げるんだとか思って、小学6年のときに応募するんです。それがあるコンテストのメーカー賞に選ばれた。それ以来、コンテストに応募しまくる日々が続いて、もうプログラムが仕事になって、 コンテストの締切の前なんか、学校行かないでプログラムやってた。
――『飯野賢治の本』P41
コンテストに応募しまくる日々が続いたというのは、1984年「第3回ポニカ オリジナル・プログラム・コンテスト」の受賞者名からも確認できる(同姓同名の別人ということはないだろう)。
キャニオン賞は賞金10万円だったらしい。商品化予定とあるが、この回の受賞作で市販化されたものは結局なかったようだ。
Web上にも生前の彼のインタビュー記事はいくつか残っている。
81年って他にもあって、僕、パソコンのプログラムのコンテストに応募したら受賞して、50数万円もらったんですよ。その賞って、高校中退した僕が社会に出られるきっかけにもなるんですけど、それも81年。
これは具体的に何のことを指しているのか。81年ならば小学校4~5年で、上記証言とは時期が異なる。そもそもPC-6001は81年11月10日の発売で、それほどの短期間でコンテストに応募できたとは考えづらく、飯野氏の記憶違いの線が濃厚だ。
加えて「高校中退した僕が社会に出られるきっかけに」も気にかかるが、これは該当しそうな記述がある。
「ゲームの世界でだったら食べていけるかもしれないし、納得のいく仕事ができるかもしれないな」って思ったんだ。
それでまた『フロム・エー』を見て、そこに出ていた会社に面接を受けに行った。
……合格!
「よしっ」って感じ。
その面接、おやじが貼っていてくれた『十和田湖殺人事件』の賞状を持っていって受かったんだよね。――『ゲーム Super 27 years Life』P144
やはり『十和田湖殺人事件』のことを指しているらしい。
それにしても50数万円とは相当の金額で、それほどの規模のコンテストなら当時の雑誌に彼の名前が残っていてもいいはずなのだが、識者からそれが見つかったという声はまったく聞かないのだ。賞金ではなく印税の総額とも考えられるが……。
【2024/08/31 追記】
X(旧:Twitter)ユーザーの @Ackieee さんがこの問題について貴重な資料をお持ちで、これを見かけた私もその資料――音楽ネットワーク・マガジンの『dig・it デジット』を入手することができたので紹介したい。当時多方面から注目を浴びていた飯野氏だが、音楽雑誌にも顔を出していたのだ。
それで、いろいろと作った後に、一本しっかり長いのを作って、コンテスト応募してみたら賞をもらったんです。
(中略)
実は、その小学校の時作ったゲームのアイディアってのも音楽なんです。ストーリーのあるアドベンチャー・ゲームだったんです。当時ゲームのメディアってのはカセットでした。ハードディスクがまだ出てなかったし、フロッピーディスクは高かった。でも、カセットってことは、カセットに音楽が入るなって思ったんですよ。ゲームのエンディングに来たら、パソコンから「再生」の信号を送って音楽を流すんです。そうすると最後は、エンディングとともに曲が流れるっていう。そのアイディアでほとんど取ったようなものですね。――『dig・it デジット Volume.001 GIGs増刊』P34
タイトルは出ていないが、これも『十和田湖殺人事件』のことだろう。しかも内容について軽く触れられている。
あるシーンに来たらカセットテープに録音したサウンドを流す――このアイディアを採用したゲームは『機動戦士ガンダム1 ガンダム大地に立つ』(ラポート、1983年)が有名だが、ほぼ同時期に、あるいは少し早く、飯野氏は小学生でありながら独自にこれを思いつき、実装してみせたということらしい。彼の天才性が窺えるエピソードと言えそうだ。
この件についてはまだまだ、手がかりが少ない。
本人の証言も、主に時期が微妙にブレており調査を難しくさせている。とにかく当時の雑誌等の記録が発見されればはっきりしそうなのだが……。
【参考文献】
『ゲーム Super 27 years Life』(星海社、2014年。底本は講談社、1997年)
『スーパーヒットゲーム学』(扶桑社、1998年)
『飯野賢治の本』(マイクロデザイン出版局、1996年)
『dig・it デジット Volume.001 GIGs増刊』(シンコーミュージック、1999年)