実は画期的で好評だった? 『ミシシッピー殺人事件』再評価論:前編
実は画期的で好評だった? 『ミシシッピー殺人事件』再評価論:後編
『ミシシッピー殺人事件』(原題:Murder on the Mississippi)の再評価を試みる論考を行ってきたが、これだけでは不足と考えた私は、当時の関係者にインタビューできないかと考えた。
本作の開発を統括したのは、当時Activisionに所属していたゲームプロデューサー、ブラッド・フレッガー(Brad Fregger)氏だ。
ビデオゲーム業界初のサードパーティとして知られるActivision。そのActivisionにおいて、フレッガー氏は最初に「ビデオゲームプロデューサー」の肩書きを得た、まさにこの職業のパイオニアと呼ぶべきレジェンドである。
彼が世に送り出したゲームには、日本でも有名なパズルゲームの『上海』(1986年)、世界初のコンピュータソリティアである『Solitaire Royale』(1987年)などがある。また『テトリス』(1984年)がアメリカでビジネス展開される前、プレイ評価を依頼されたフレッガー氏は即座に大ヒットを予感し、ライセンス取得を強く勧めたという。
そんな彼は『Murder~』のことをどう考えているのか? 私は思いきってコンタクトを取ってみた。もしも『Murder~』のことを覚えているなら、ぜひメールインタビューをさせてほしいと依頼した。すると――
「40年も前のことではありますが、記憶のかぎり、喜んで答えさせてもらいます」
こうして世にも珍しい『ミシシッピー殺人事件』インタビューが実現した。
プロジェクトの始まり
――『Murder on the Mississippi』のプロジェクトはどのように始まったのですか?
フレッガー氏:
当時私はActivisionのゲーム開発担当だったのですが、アダム・ベリン*1が私のところにやってきて、こう言ったのです。
「僕はテキストベースのアドベンチャーゲームが好きなんだけど、これからはビデオ的なアドベンチャーゲーム(adventure video game)もポピュラーになると思うんだ」
私はその意見に同意しました。そしてアダムは『Murder on the Mississippi』をデザインし、プログラムしたのです。これはこのジャンルにとって、まったく初めてのゲームでした。
(当時の)ゲームは構想から完成まで通常3ヵ月ほどかかりました。我々が『Murder~』を始めたのは86年の初めだったと思います。
――アダム・ベリン氏とはどのようなやりとりをしたのでしょうか?
フレッガー氏:
私はプロデューサーでした。私の主な仕事は、製品が可能な限り良いものであること、そしてゲームプレイが魅力的であることを確認することでした。
アダムは優秀で情熱的なゲーム開発者だったので、小さな問題もほとんどなく、プロセスは順調に進みましたよ。
念のため、私は何度もゲームをプレイしました。私はすべてのプロジェクトにおいて、とても 「実践的 (hands-on)」なプロデューサーだったのです。
ゲームの内容について
――ゲームの容疑者たちは、すでに話した事は二度と話さないことが特徴でした。これはゲームデザイン上のどのような思想に基づいていたのですか?
フレッガー氏:
これはちょっと記憶が飛んでいたのですが……そういえばアダムは、謎を解くために何度もプレイされるゲームが、退屈になってしまうことを望んでいませんでしたね。
私はそのアイデアと、それを実現する彼のやり方を気に入っていました。
――『Murder~』は音楽、特にメインテーマも印象的でした。作曲家のエド・ボガス氏*2には、どんなオーダーをしたのでしょうか?
フレッガー氏:
エド・ボガスに対してはオーダーというものは必要ないのです。エドは受賞歴もある天才です。彼にゲームを見せると、それで音楽を作ってしまうのです。
そんなエドと10年以上一緒に仕事ができたのは光栄でした。私たちは日本の富士通パソコンのFM TOWNSでも、2つの大きなプロジェクトを行いましたよ。『Ishido(石道)』*3と『Mr.Ed Bogas’ Music Machine』です。
――『Murder~』が犯人当てコンテストを実施していたことに驚きました。当時、ビデオゲームではあまり例がなかったと思います。これはどなたのアイディアでしょうか?
フレッガー氏:
これはActivisionのマーケティング部門の功績ですね。
――当時の雑誌記事でも『Murder~』は好評だったように思います。手応えはどうでしたか?
フレッガー氏:
これは非常に成功しましたし、挑戦的で楽しい作品であり、さらにまったく新しいジャンルでした。批評家たちもこの作品を気に入ってくれました。
ちなみに、私が手がけたゲームのほとんどは高い評価を受け、ゲーマーたちに愛されました。
(ここでフレッガー氏は別のプロジェクトについても語ってくれた)
私とアダムはデビッド ・クレイン*4がゲームデザインした『Ghostbusters』(1984年)の、オリジナルのC64バージョンにも関わっています。
デビッドは私たちの努力をとても喜んでくれて、プロデューサーとしてカバーのクレジットを受け取ってほしいと言いました。それがカバーのオリジナルデザインになりました。
しかしActivisionの経営陣は、プロデューサーがカバーのクレジットを得ることを望まなかったのです。結局、私の名前は元のカバーから削除されてしまいました。
(そう言って下記のURLを教えてくれた。氏のクレジットが削除される前のカバー画像が見られる)
Computer Games Brad Fregger Produced
https://fairfieldjournal.org/computer-games-brad-fregger-produced-p1472-316.htm
移植版について
――『Murder~』はファミコンに移植されました。これはどのように決定したのでしょうか?
フレッガー氏:
これは企業の決定事項でした。こうしたことは通常、我々(クリエイター陣)はタッチできません。
――残念ながらファミコン版は評価は良くありませんでした。日本での評判はご存じでしたか?
フレッガー氏:
繰り返しになりますが、私にはこの種の決定について何の責任も知識もありませんでした。(移植版が)台無しになったというのはとても残念です。
――『Murder~』はMSXにも移植されましたが、これにも関わってはいないのですね。
フレッガー氏:
はい。私はすでに他のプロジェクトに深く関わっていました。加えて私はActivisionを1987年に去りました。そのMSX版開発時に私が在籍していたかどうかもわかりませんね。
最後に……
――質問なのですが、これまで私の他に『Murder~』についてインタビューした人はいましたか?(少なくとも私のような日本人はいないと思うのですが)
フレッガー氏:
あなたが最初です。
私が受けてきたインタビューと言えば、最初のコンピュータソリティアである『Solitaire Royale』や、『Pitfall 2』のイースターエッグについてでした。他のゲームもいくつかありましたね。
フレッガー氏は『Murder~』のクオリティに自信を持っており、誇りを持って世に送り出していた。
ゲームプロデューサーとしては当然の話かもしれない。しかし低評価が完全に定着していた日本国内では、このような話はほとんど聞かれなかったと思う。
このことを知れただけでもインタビューした甲斐があったと満足しており、ブラッド・フレッガー氏に感謝したい。
今後、他の関係者にもインタビューができればと考えている。期待してくだされば幸いだ。
*1:ゲームデザイナー、プログラマー。『Murder~』以後はゴルフゲームの『PGA Tour』シリーズなどに関わる。現在はDECK of DICE Gaming所属。
*2:作曲家、ミュージシャン。映画音楽、テレビ音楽、ゲーム音楽とその活動は多岐にわたる。第27回グラミー賞ではアルバム『Flashbeagle』でBest Recording For Children部門にノミネートされた。
*3:すべてのマスに石を置いていくことが目的のパズルゲーム。日本ではFM TOWNSの他、NEC PC、ディスクシステムやゲームボーイなど、多くの機種で発売された。
*4:ゲームデザイナー、プログラマー。Atariの社員だったが、1979年に退社。同年に彼を含む4人の共同でActivisionを設立する。彼がゲームデザインしたアクションゲーム『Pitfall!』(1982年)は初期Activisionの最大のヒット作として知られる。